logo

日本 アニメ 論文

12世紀 - 13世紀(平安時代末期 - 鎌倉時代初期)の日本の絵巻物にアニメーション技術の前史をさかのぼる見方がある。高畑勲によれば、『鳥獣人物戯画』『信貴山縁起』『伴大納言絵巻』などの絵巻物は、永遠や本質や現実に迫る西洋の物語絵画とは対照的に、時間的経過を空間的に表現して「現在」の連続として味わわせるもので、表情の変化、線で書かれた動きなどは漫画やアニメと同じであり、日本のアニメの歴史は絵巻物から語らねばならないと述べている。 江戸時代の幻灯芝居である写し絵、走馬灯、草双紙、合巻、紙芝居、影絵、のぞき絵にも、アニメのカット割り、マンガのコマ割りの技術がみられ、中でも写し絵は動画映画の始祖であるとされる。. そんな問いに斬り込んだのが、昨年11月に東京大などの研究チームが発表した論文「日本中で愛を叫んだけもの -動物園と動物アニメは、絶滅危惧種への関心を高め、寄付を促進する-」(原文:”Zoos and animated animals increase public interest in and support for threatened. 映画会社・東映の大川博社長は、戦後の惨禍から復興を目指すなか、ディズニー・スタジオの長編アニメ『白雪姫』(1937年製作)を見て、そのきらびやかなフルカラー作品に圧倒され、「東洋のディズニーを目指す」として、1956年に空調完備の白亜の殿堂といわれた近代的スタジオを建て、東映動画を設立した。 東映動画(現・東映アニメーション)の長編第1作『白蛇伝』は1958年10月に公開された。原作は中国の物語。大学受験を控えた宮崎駿がこのアニメを見に行って、作品の質の高さにびっくりしたという ©東映 第1作として『白蛇伝』が選ばれた。米国に視察団を派遣したり、指導者を招へいしたり、徹底したディズニー・システム「工程別流れ作業方式」を導入した。多くの新人社員を採用し、製作しながら育成する。森康二、大工原章などのベテランアニメーターたちが中心になって指導にあたった。 超就職難の時代に、若い優秀な人材が安い初任給で集まった。労働集約型の典型的企業だった。しかし、所得倍増が叫ばれ、賃金もやがて倍増して、たちまち赤字会社に転落する。毎年春休み(後に夏休みも)に「まんが祭り」として公開する世界名作童話アニメの入場者数も漸減傾向が続き、先の展望も見通せない経営状態だった。折からの労働運動の高まりの中で労働争議が頻発、労使激突の機運が高まっていった。現在スタジオジブリ所属の高畑勲、宮崎駿も東映動画出身(高畑は1959年、宮崎は1963年入社)で、労組では高畑が副委員長、宮崎は書記長を務めたこともあった。. 日本貿易振興機構(jetro)の報告によれば、欧州で日本のアニメ放送が多い国は、1位がドイツ、2位はベルギーとなっています。 放送局別には、ドイツのRTL2社が1位で、週換算で43本のアニメが放映され、世界第1位のアニメ放送局となっています。. アニメがもたらす経済効果について論文を書こうと思ってるのですが、オススメの書物があったら教えてください。また、参考になる施設があったら教えてください。. 1980年代になり廉価な家庭用ビデオデッキが量産され始めるとOVAが登場した。これは劇場用映画でもなければ、テレビ放送もされないアニメの総称で、主にビデオソフトの形で販売された。最初のOVAは『ダロス』(1983年)で、この後も続々と新作が発売され、現在では日本アニメの柱の1つになっている。OVAは、作品そのものを購入できるような収入を持つ独身男性を主要購買層に定めた作品が多く、それらを対象にしたアニメは自然とOVAで発表されることが増え、結果的に、低年齢層・家族向けにはテレビアニメ、高年齢層向けにはOVAという流通形態に分化することとなった。 その後、高年齢層向けの作品を高年齢層向けの時間帯に放送し、その宣伝効果でビデオソフトやキャラクター商品を売り上げ、制作資金を回収する方法が確立された。これにより、高年齢層向けの作品のテレビアニメも増えてきた。これらの作品は深夜帯や独立UHF局、アニメ専門のケーブルテレビ局で先行放送した直後にビデオソフト化し、話題になっているうちに販売するという販売戦略が採られている。この形態での放送・ソフト化が広まり、現在では狭義のOVAは衰退し、高年齢層向けの作品が加わる形でテレビアニメの対象年齢層が拡大している。 要因としては少子化による玩具の売り上げ低下で玩具メーカーがスポンサーから撤退しゴールデンタイムのテレビアニメ放送が難しくなってきたこと、1995年の『新世紀エヴァンゲリオン』の大成功、1997年頃に実用化されたコンピュータ彩色による制作費の低下・制作期間の短縮化、複数の企業が制作費を出し合う製作委員会方式によって制作費の調達が容易になったこと、テレビアニメのビデオソフト化で制作費を賄う仕組みができたこと、そして地上波の深夜放送枠、ケーブルテレビ局、WOWOWノンスクランブル枠、独立UHF放送局、CS放送、BSデジタル放送といった新たな放送枠が開拓されたことが挙げられている。. . 現代の日本ではアニメがサブカルとして世界各国で愛されている。 実際、世界でも古くからアニメをコマ撮りを行っていた1902年からの歴史もある。しかし驚くべきは日本のアニメーション技術の歴史だ。.

日本のアニメが世界的に人気だという事実は、多くの日本人が知るところだと思います。しかし、「なんとなく宮崎アニメが人気」とか「オタク文化が広まっている」という程度の認識だったりするのではないでしょうか。 実は、我々日本人が思う以上に、日本のアニメは世界中で大きな影響. 日本のアニメが生まれ今日にいたるまで,ずっと制作者が不利な構造のままアニメ業界. . 日本では大正期にかけて外国から輸入されたアニメーション映画の人気を受けて、天活(天然色活動写真株式会社)で下川凹天が、小林商会で幸内純一が、日活で北山清太郎が独自にアニメーション制作を開始。1917年(大正6年)1月、下川が手がけた短篇アニメーション映画『凸坊新畫帖 芋助猪狩の巻』が公開され国産アニメーション映画の第1号となったが、他の2人との差は数カ月程度でそれぞれ独自の方法で製作しているため、3人とも日本のアニメーションの創始者として扱われている注 1。3作品はいずれも1917年に公開されたが、現存するのは幸内純一の『なまくら刀』のみである。 国産アニメ100周年に当たる年には、これら黎明期の作品を紹介するサイト「日本アニメーション映画クラシックス」が開設されたほか、京都国際マンガミュージアムと川崎市市民ミュージアムで展覧会「にっぽんアニメーションことはじめ」が開かれている。 諸外国と同じく当初作られていたアニメは数分程度の短編映画が多かった。作り手も個人もしくは少人数の工房での家庭内手工業に準ずる製作体制で、生産本数も少なく、生産の効率化を可能とするセル画の導入も遅れていた。1930年前後にセル画が使われ始まるまでは、日本では、フランスなどと同様、切り絵によるアニメが主流であった。 太平洋戦争を迎えると、戦意高揚を目的とする作品が制作され瀬尾光世監督による長編アニメーション『桃太郎の海鷲』(1943年)が藝術映画社より製作され、1945年には松竹動画研究所により『桃太郎 海の神兵』が産み出された。この時期軍部が提供した潤沢な予算は技術力の向上に繋がったとの評価がある。上記2作のほか、戦争中には日本最初のフルセルアニメーション『くもとちゅうりっぷ』(1943年)があり、戦時中にも関わらず叙情性が豊かなミュージカル仕立ての作品となっている。 戦後、東映は1956年に日動映画を吸収合併しアニメスタジオ「東映動画」を発足。1961年には手塚治虫が「虫プロダクション」を発足させた。東映動画は劇場用アニメーション映画の製作を開始し、日本初のカラー長編アニメ映画『白蛇伝』(1958年)が制作され「東洋のディズニー」を目指した目論見通りに日本国外へも輸出された、一方虫プロダクションは日本で最初の本格的連続テレビアニメ『鉄腕アトム』(1963年)とそれに付随す. 当初、アニメは日本では子供達の間で特に人気があった。大人達はそれまでに見慣れていた時代劇やホームドラマのようなものに関心が高く、アニメには余り興味を示さなかった。そして初期に作られたアニメで成功した作品はほとんどが子供向きのものであった。この事情から、1960年代から1970年代にかけて制作されたアニメはほとんどが子供、特に12歳以下を対象とした内容であった。キャラクターグッズを欲しがる年齢層もこの年齢層に重なっていたため、アニメ制作会社にとってもこれは好都合であった。 このように、初めてのテレビアニメが制作されてからの約10年間は、良くも悪くもアニメは『鉄腕アトム』に多くの影響を受けていた。現在の日本のアニメは原作を持つ作品が多いが、これは黎明期のテレビアニメに原作付きの物が多かったという例に倣った結果と言える。.

日本のアニメや漫画文化は海外でも評価が非常に高く、外国人が日本に興味を持つきっかけとなっています。その中でも特に欧州や中国からの人気を博しています。最近ではファンがアニメや漫画の舞台となった場所を巡る聖地巡礼も盛んに行われており、そのために日本を訪れる外国人観光客. マーチャンダイジング方式は以後テレビアニメの基本的ビジネスパターンとして定着した。作品傾向はSF、宇宙ものが主流で、続いて魔法少女ものが続き、1968年にはスポーツ根性もの『巨人の星』、その翌年にはホームドラマでテレビアニメの最長寿記録更新中の『サザエさん』がスタートしている。しかし供給過剰で競争は激化した。 制作コスト高で赤字決算続きの東映動画(現・東映アニメーション)は労使関係が悪化、1972年夏、ついにロックアウトと指名解雇に至った。また翌73 年には虫プロが倒産(その後創業者・手塚に代わって労組が主導するかたちで存続し現在に至る)するなど、早くも冬の時代を迎える。前後にドルショック(1971)、第1次石油ショック(1973)などの背景があった。 テレビアニメはシリーズが終わるとスタッフは解散される。東映の年功序列の社員雇用制度が破綻し、出来高支払い制度に移行することになる。テレビ局の機敏な編成方針に対応可能な企業態への変換が求められたのである。 冬の時代の停滞ムードの中、新しい作品が現れた。アニメは子供のものという既成概念を変える作品『宇宙戦艦ヤマト』(1974年テレビシリーズ、1977年劇場版公開)が登場、ヤング層の圧倒的人気沸騰ぶりが社会現象となった。. ④テレビ・アニメ番組に描かれた男女の力関係については、男性が強く能動的であり、女性 が弱く受動的である、というパターンが多い。 ⑤テレビ・アニメ番組に登場する女性は、男性に対する恋愛関係を望んでいる。. テレビアニメは大人気となり、大量のプロダクションが生まれ、作品数も飛躍的に増加したがその結果、アニメーターの数が不足した。多くのプロダクションは美術系大学の卒業生などを集めたがそれでも足りなかった。優秀なアニメーターの引き抜きが恒常的に行われるようになり、アニメーターの人件費はみるみる内に高騰した。反面、テレビ局の製作費はそれほどは増えなかった。 それまでほとんどのアニメ制作プロダクションは内製システムを採っていた。キャラクター設定から原画・動画・動画チェック・彩色・撮影など、全ての工程を社内で行うことによって、作品の品質を保てていた。外注は1963年には既に存在したが、恒常的には行われていなかった。しかし、1971年から東映動画は主だった工程のみを自社内で行い、動画・彩色などの比較的単純な工程については外注や出来高払いに移行をし始め、実質的な人員整理を開始した。これに対しては組合側が激しく反発したが、経営側は応じず、1972年、指名解雇が始まる。経営側は組合側の反発にロックアウトを行って応酬した。経営側が強硬だったのは、赤字が嵩み、人件費の削減が行えない限り、会社の存続が困難だったためだと言われている。 一方、虫プロダクションでは1973年に労働争議が起き、解決しないまま倒産した。社長の手塚治虫は虫プロ設立当時「僕は何かあったら労組の先頭に立って一番に会社を糾弾する」と冗談を言っていたことがある。 日本 アニメ 論文 内製システムを採っていた大手2社でこのような事態になり、同じく内製システムだったタツノコプロも1970年代半ばに賃金問題と社長の死去で、70名から80名の有力な人材が流出して結果的にリストラを行ったことと同じ状態になった。これらの事件を切っ掛けに、ほとんどのプロダクションは多くの作業を外注に頼るようになり、また、以後、アニメーターの給与は極めて低く抑えられるようになった。例えば、虫プロダクション出身者によって設立された日本サンライズは、虫プロダクションを教訓に、制作管理スタッフだけを正社員として発足した。この状況は現在も続いている。1980年代後半以降、動画・彩色という低賃金の工程はほとんどが東アジアで行われるようになり、アニメ制作の空洞化が指摘されている(なお東映動画は海外発注を1973年に開始している)。.

で公開され、本作がカラー作品という事実が確証されている。 日本 アニメ 論文 1960年1月15日に、中村メイコのトークや実写を交えて3つの童話をアニメーション化した30分番組『新しい動画 3つのはなし』(NHK)が放送された。この他に短編アニメーションを利用した番組は、『みんなのうた』(NHK、1961年放送開始)や、おとぎプロ制作による日本初の連続短編テレビアニメーション『インスタントヒストリー』(放送時間1分、1961年5月8日~1962年2月24日)フジテレビ系列で放送されたが、新聞のテレビ欄. る。本論文では使われている「アニメ」という言葉は、日本で作られた漫画、ゲームや小説 から取り上げたテレビアニメやアニメ映画のことを指す。 区別する必須は複数の視点から必要とされている。先ずは、アニメについて外国人として. 日本アニメに見るアニミズムとは. ある、日本のアニメ・マンガを本場で体験するための観光誘客が成立するための基礎が築か れたのは1960 年代からである。 日本のアニメ・マンガの第一の大きな特徴として、両者が深い関係で結ばれていること が挙げられる。.

/d7bc3f4fda0be /166590/19 /2eaa4a93b550f-13 /1674027